「遺体の脳を熟慮する演出家の脳は遺体の脳ほど有能か?、ということを考えながら」

「脳が生み出す言語の不思議」
「遺伝子を道具として脳を見る 〜 いかにして硬い遺伝子が柔らかい脳をつくるのか」

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演題名
「遺体の脳を熟慮する演出家の脳は遺体の脳ほど有能か?、ということを考えながら」
   
講演要旨
 遺体科学なる博物学を提唱してきた。これは動物の遺体を無制限無目的に集め、そこから人類に新しい知をもたらし、最後には遺体現物を未来に残す営みだ。今流に合理的に説明づけられない徹底した収集は、しかしながら、恥ずかしくないいくばくかの知見を得てきた。たとえばアリクイの顎の開き方、パンダの指の動かし方、インドサイの鎧状皮膚の機能、体表の針で音を出す棘だらけの獣など、中学生でも分かる進化の話を、遺体科学は真面目に追い続けている。遺体を通じ、遺体科学が追い続けるのは、完成された身体の形が実現する動物の生き様と、その歴史だ。
 だが、残念ながら、脳を対象にした遺体科学の発見はまだ少なく、自分が設える舞台に、脳が登ることはあまりない。罪滅ぼしに、今日は脳なる役者に、少しはいい台詞を用意してあげようか。
 ホモ・サピエンスの脳は、おおざっぱに1500cc。動物の中枢神経としては、異様に大きい。これを学者たちは、どうとらえてきたか? かつて哲学者デカルトは「精神の住処」を、脳の一部に求め始めていた。かのもっとも先鋭的とすら言える合理的な学者が、脳の機能を漠然と経験的に探すあたり、この脳という器官がいかに手強いかをよく示している。左様、骨が動物の体重を支えたり、筋肉が力を出して運動したり、消化管が食べ物を溶かす化学物質を分泌したり、肝臓が多種多様大量の蛋白質を合成したり、血液が酸素らしきものを運んでいく現象に比べると、確かに脳は語るに難し過ぎる。
 脳を考えた人間は、いつも脳に対して無力だった。解剖学者は脳の大きさを測って比べてみた。クジラの8キロの脳がヒトよりも頭がいいという結論はぜひとも避けなければならないから、都合よく体重に指数をつけて割り算を始めた。それで分かったことは豊富ではなかっただろう。他方、解剖学を徹底的に笑い飛ばした生理学者ベルナールの末裔たちも、骨や筋肉や酵素やDNAや細胞と比べて、都合よく要素に還元していくのが難しいこの装置を、どうやら放ったらかしにした。無知と正面から向き合ったデカルトに比べたら、生理学も解剖学も十分に愚かしかった。
 気がつけば、仕組みとしての脳を生きたまままるごと観察できる時代がやっと訪れている。それはトータルに物を見ようとしてきた遺体科学が、自分の名前に反して、生きた身体の観察をとことん応援するときだ。脳を生きたまま見る時代だ。遠心機でぐじゃぐじゃにしたり、PCRで好きなところだけを増やしたりしない、塊の脳を生きたまま。
 そんなことを考えながら、今日は遺体科学にちょっとだけいい演技をつけてあげたい。やっぱり、脳の台詞は少ないのかなと思いつつ・・・。
 
講師略歴

遠藤秀紀(えんどうひでき)
 
東京の下町、台東区は下谷・根岸が故郷。1965年生まれ。東京大学農学部を卒業してから、国立科学博物館、京都大学霊長類研究所で禄を食み、いまは東京大学総合研究博物館(http://www.um.u-tokyo.ac.jp/people/faculty_endo.html)で教授をしている。「遺体科学」を唱え、遺体に隠された進化の謎を追い、遺体を文化の礎として未来へ引き継ぐべく、東奔西走。パンダの掌、イルカの肺、ニワトリの肢、アリクイの顎、サメの心臓などを見ながら、身体の歴史についてぼんやりと考えている。獣医師だが、動物の命を救うことはない。「人体 失敗の進化史」(光文社新書)、「パンダの死体はよみがえる」(ちくま新書)、「解剖男」(講談社現代新書)などが書店に並ぶ。だが、解剖より、鉄道模型や東宝特撮や純文学の方が得意だと、自分では思う。ときに死と現代社会の間柄を斬りながら、今日を生きる。
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