ヒトゲノムが解読されて既に数年経ちました。塩基配列を読むシーケンサーの能率も、毎年10倍になるほどの勢いで改善されています。あと数年すると、誰でも自分のゲノムの全配列を読める時代が来るでしょう。ゲノムが読まれるということは身体の設計図である遺伝子の中身が全部分かるということです。実際、多くの遺伝病の原因遺伝子が次々と明らかにされています。それでは設計図が分かればその機械の構造や機能は分かるのでしょうか?複雑なコンピューターを作る時、設計図に従って正確に電子回路を組み立てます。従って、ある入力をコンピューターに与えたらどういう出力が出てくるかは正確に予言できます。同じ計算を何度やっても同じ答えが出てきます。もし計算する度に答えが違ったら、誰も買ってくれないでしょう。「硬い」設計図が「硬い」コンピューターを作るわけです。
それではコンピューターに似ている脳はどうでしょうか?脳のような見事な機械は設計図無しには作れません。その設計図は遺伝子の中にあるとしか考えられません。遺伝子は正確に解読できる「硬い」ものです。遺伝子は正確に蛋白質のアミノ酸配列を決め、アミノ酸配列が決まれば蛋白質の立体構造と機能が決まります。この過程も「硬い」ものです。その結果できる脳なのに、同じ計算をしてもいつも同じ結果が出るとは限りません!また環境条件や経験で異なった機能を発揮するのも脳の特徴です。「硬い」遺伝子が作る脳はなぜ「柔らかい」ものになれるのでしょうか?
この疑問に答えられる人は専門家にもまだいないと思います。科学の立場からこれに答える一つの方法は、脳がどこまで厳密に遺伝子で設計されているのかを実証的に調べることです。関係する遺伝子を壊して(突然変異体)なにがおきるのかを調べるのです。私はこんなに高尚に考えたわけではないのですが、約45年前の医学生時代に、「遺伝子を変えて神経回路を変えられないか?」「行動に異常をきたす突然変異体が得られないか?」などと夢見ていました。当時は分子遺伝学といえば大腸菌とファージの話でしたから、「行動の遺伝子」などというと皆に馬鹿にされた時代でした。でも、遺伝病で脳の障害がおきることは知られていたし、精神疾患に遺伝的な素因がありそうだということも言われていましたので、まともな考え方だと思うのです。その後、大学院を出てからアメリカに留学してその夢がようやくかなうことになりました。
実験にヒトを使うことはできません。また世代時間の長い哺乳類で能率よく突然変異体の研究はできません。私たちは遺伝学の技術が蓄積されたショウジョウバエを用いて走光性・飛翔・求婚・学習などさまざまな行動に異常をおこす突然変異体の分離を行い、遺伝子が脳機能を生み出す秘密を少しずつ明らかにすることができました。学習など脳の「柔らかさ」を支配する遺伝子もあるのです。また遺伝子を変化させて神経回路を組換えることにも成功しました。この様にしてハエで明らかにした遺伝子の多くは、ヒトの脳の構築にも使われていることが分かるようになったのは、ゲノムの時代になったからです。本日の講演では、ショウジョウバエの突然変異をどうやって作るのか、神経回路をどういう風に見ることができるのか、などを皆様に追体験していただけるように実験のエッセンスを示しながら、「硬さ」と「柔らかさ」の矛盾に迫ってみたいと思います。 |